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CBTで
​助かっている話。

福井至先生/貝谷久宜先生監修の『今日から使える ​認知行動療法』(ナツメ社)という本があります。

ずいぶん長くこの本を愛用しています。

認知行動療法の〝使い方〟がコンパクトにまとめられています。通勤時など折を見て読み返しており、少しずつ認知行動療法的な考え方やスキルが身についてきています。結論から言うと、認知行動療法を学んで助かっています。

私の認知行動療法〝歴〟は長く、大学生のときに学生相談室で受けたのが初ですので、かれこれ12年ほどになります。ですが「身についてきたなあ」としみじみ実感するのは、ほんの1年ほど前からです。

私の場合は時間がかかったんですね。当初は認知行動療法の考え方にピンときてませんでした。最近、ハマっています笑

ストレスを抱えていて、認知行動療法に漠然と興味のある方は多いはずです。

認知行動療法を学ぶ道すじは、もちろんこの本一つだけではありません。たくさんの方法があります。パッと思いつくだけでも、

・YouTubeで「こころコンディショナー」と検索、学習動画を観る

(※大野先生は認知行動療法の著名な専門家です)。

・早稲田メンタルクリニックのHPに認知行動療法ワークブックが無料で公開されているので、印刷して書き込んでみる

・図書館で認知行動療法の本を借りてきて、自分のノートなどに書き込んでみる

・認知行動療法が受けられる医療機関や心理相談室を探す

(※心理カウンセリングは1回につき数千円~数万円かかるなど高額だが、大学院付属の相談室だと比較的安価に受けられる。臨床心理士を目指している大学院生の研修機関も兼ねているため)

・ナツメ社の『今日から使える 認知行動療法』を読む(この本)

オンライン学習が盛んになり、認知行動療法に至る道すじも多様化したように感じます。私は詳しくありませんが、認知行動療法のアプリなども多数出ているようです。合うものは採り入れてみていいかもしれません。

ご参考までに、私の認知行動療法の〝使い方〟を、いちサンプルとしてざっくりご紹介いたします。

9:00~ 

通勤電車の中で認知行動療法の本を読み学習。お気に入りは「認知のゆがみ10パタン」の紹介、認知行動療法カウンセリングで貝谷先生とキャラクターがやりとりするページ。

12:00~

手帳を開く。さまざまな認知行動療法の本から引用したお気に入りの考え方、ワードが書かれているので、それらを見返す。気づきを書き込む。

19:30~

帰りの電車は余裕があれば本を読む。なければ「今・ここ」を意識し、ただ窓を眺めるように思考を眺める。

帰宅。余裕があればノートに認知行動療法を書き出す。

 

だいたいこんな感じです。

私は目下認知行動療法にハマっているのでがっつりやっていますが、認知行動療法! と意気込まなくても、認知行動療法〝的〟なセルフケアをまずは日常に採り入れてみるというのはいかがでしょうか。

湯船に浸かったら、ただお湯の熱さ、血行がよくなる感覚を味わってみる。

就寝時はその日あった「いいこと」を無理やりにでも思い出す。

友人が同じことを相談してきたら、どう返すか? なんとなく想像してみる。

認知行動療法の極意を言い表すと、「自由に、客観的に考える」ということだと私は思っています。

客観的に見た結果、現実が〝詰んで〟いたとしても、それはわれわれの価値とはなんら関係ないことです。「私は私」なのです。

認知行動療法にハマってからというもの、主観ですが心がしなやかになったような気がします。

​あなたも認知行動療法、してみませんか。

​ポジティブ転換事典(仮)
ポジティブ転換事典(仮)というものがつくれないか模索している。ある種の認知行動療法に近いかもしれない。
かつての忌まわしい記憶、トラウマに苦しめられている人が、現在の生活の「いい部分」を書き出す作業である。
トラウマは残る。それ「自体」をポジティブに変換しろというのは恐ろしい発想である。被害者が自発的に行うのはもちろん自由だが、周囲が強制すべきでは絶対にない。
だからひとまず安全となった、現在の生活のいい部分を書き出して客観視するのである。安全を噛みしめる作業である。「ポジティブ転換事典(仮)」という名称がよくないかもしれない。いい名前があったら教えてください。

 

王様の耳は……。

あなたは有名な寓話、『王様の耳はロバの耳』をご存知でしょうか。

 

以下にWikipediaからの引用を示します。

 

昔、立琴の神と笛の神がどっちの音が素晴らしいかで争っていた。その審査をした神たちは立琴の音が素晴らしかったと言ったが、王は「自分の耳には笛の音がよく響いた」と言う。そのことに怒った立琴の神は、王の耳をロバの耳に変えてしまい、このことに恥ずかしくなった王は頭巾を被って耳を隠すようになる。

 

だが、床屋に髪を切ってもらう事になった時、王の耳がロバの耳であることを知ってしまった床屋は、王に口止めをされた苦しさのために、森の中の葦のちかくに掘った穴の底に向かって「王様の耳はロバの耳」と叫ぶ。数日後、穴を塞いだあとに生えた葦がその言葉を言うようになる。それを聞いた王は床屋が言いふらしたと思って激怒するが、床屋から事情を聞いて家来に調べさせた結果、葦が言っていることを知ると恥ずかしくなって床屋を釈放し、ロバの耳を晒して生きるようになった。

(Wikipediaより引用 閲覧日:2022年9月18日)

 

小学生のころに『王様の耳はロバの耳』を読んだ柏木ですが、率直に「いい王様だな」と思ったのを記憶しています。

王の権力をもってすれば、一度髪を切ってもらう度に理髪師を「殺してしまう」ということだって極端な話できたはずです。あるいは、シンプルに「自分で切る」という方法だってあったはず。ですが王はそれをせず、いつも同じ理髪師に切ってもらい、口止めしただけで城から帰してしまいます。

 

 

私はこの物語の根底に流れるテーマは、「事実を見る」と「信頼する」の2つであると考えています。

美容師/理髪師と客とのあいだに、しばしば半ば強固な(その場限りの)信頼関係が育まれがちなのは、おおむね同意してもらえると思います。

これは私の友人から聞いた話ですが、友人の通っているヘアサロンの別の客(男性、既婚者、子ども有)は、美容師の施術中に「自分はマッチングアプリを利用して『不倫』を続けている」「一度(性的な)目的を果たしたら、連絡手段をすべて〝ブロック〟して関係を切る」などといった話を暴露し続けるそうです。

 

個人名は明かさないとはいえそれを別の客である友人に話して聞かせるとは、守秘義務としてどうなのか、その男性客の倫理観はどうなっているのか、などの諸問題はいったんさておいて、この話を友人から聞いた際に真っ先に私が思い起こしたのは「王様の耳はロバの耳」です。

 

男性客は性的な欲求に押されて〝目的〟を果たし続けますが、そのいっぽうで心の奥底では、少しずつ焦げ付くような自責の念を感じていたのではないでしょうか。もし本当に男性客にとって不倫が日常の所作と同じくらい自然な作業であれば、わざわざ話題に上げようとは思わないはずです。「今朝歯磨きをしたんですよ」と美容師に話す客はいないからです。

 

配偶者や子どもに嘘をつき続けて、「まっとうな夫」と「不倫し続けるただの男」といった二面性の往来を続けることによって、自己が解離しかけていた可能性はあります。それらを繋ぎとめるために、美容師と客という気安い関係――ただしそうそうおおっぴらに触れ回られることもないだろう――そして髪を切って整えてもらう作業を通じてなんとなく信頼している――そのようなうってつけの人材に〝暴露〟してバランスをとっていた可能性はおおいにあります。

 

もうひとつの「事実を見る」点についてですが、この寓話では2つの事実が登場します。

 

・王様の耳が〝ロバの耳〟であることは、隠す/隠さないにかかわらず、まぎれもない「事実」であること。

・王様が当初推測した「床屋が言いふらした」は虚偽情報であり、「葦が言っている」ことが事実であること(しかも王様は床屋から事情を聞き、家来に調べさせるというエビデンスを取得する行いもしています。この点も私がいい王様と思った点です)。

 

 

ちなみに「王様の耳はロバの耳」のエンディングにはさまざまなパタンがあり、その中に「王様は『ロバの耳を隠さなくてよくなった』とせいせいし、床屋に褒美をとらせる」というものがあります。結局葦がしゃべったことが明白になったのかは寡聞にして知りませんが、究極の事実である「自身の耳がロバの耳である」という事象を白日の下にさらし、臆せず生きていく、ある種の「開き直り」が成功した事例であるといえます。

 

考えてみれば王の耳がロバだからといって、いったいそれのなにが悪いのでしょうか。

 

王の耳がロバの耳になった要因が、立琴の神に罰を与えられたというエピソードは国によって割愛されることも多いのですが、王の「笛の音がよく響いた気がする」(立琴の音が悪いとは言っていない)といった主観に〝罰〟を与えるといった経緯もよくわかりませんし、生まれつき王の耳がロバの耳であったならなおさら、それを王が恥じ入る理由などない(ロバの耳であるのは王が選択したことではないので)からです。

 

仮にタイトルどおり「王様の耳はロバの耳」などと揶揄する者がいるとして、人の身体的特徴をあからさまに罵るという行為は、あきらかに揶揄する側の人格に瑕疵があるとしか思えないからです。

 

いずれにせよ、頭巾を外しロバの耳という〝事実〟を直視して生きていくことにした王の〝開き直り〟は、私は好きであり、美しいとすら思ってしまいます。

 

事実を直視して、開き直って生きていく。一見簡単なようですが、現代社会ではこれが出来ている人はきわめて少ないと感じます。

 

開き直ってはいるけれど、事実を直視できていない人。あるいは事実は見えているのだけれど、開き直りができず、自己を過大視/矮小視してしまい、そのようにふるまってしまう人。

 

願わくば私も王のように美しく生きたいと思う、今日このごろです。

​アドラー心理学のけっこう重要な概念に「課題の分離」があると思っているのだが、課題の分離をそれ単体でメインに扱っている書籍は少ないように思う。

そこでおなじみGoogle Scholarで〝課題の分離〟で検索してみたところ、ヒット数は155000件。おっ結構多いじゃん……と意気揚々とスクロールしてみると、「液体分離」やら「クロマト分離」(?)といった論文タイトルがずらっと並んでいて肩すかしをくらう。化学系なんだなぁ。

気を取り直して「課題の分離 アドラー」でand検索を行う。1440件であるから圧倒的に少ない。加えて、アドラー心理学における「課題の分離」が題されているものは最初の数ページだけで、そこからは「母子分離」であったり「心理学の課題」といったものが目立つ。課題の分離は日本ではさほど着目されていないのかもしれない。

だが私は、アドラーの提唱した理論でもっとも重要な理論はこの「課題の分離」であると考えている。

日本に特に多いのかもしれないが、他者と自分との境界が不明瞭で、他人をコントロールしようとすることに端を発する〝悩み〟といったものが存在する。

この〝悩み〟は自分のことではないので、課題を分離すればすべて解決する。私は前職のパワハラ上司からこの〝悩み〟の対象にされてさんざん苦しめられてきたので、こうはっきりと言うことができる。「余計なお世話である」と。

「あなたのためを思って」「あなたが心配だから」といった言説はまことしやかな嘘である。ご本人様は自分のことしか考えていない。気をつけて欲しいのは、私は自分のことを考えることがわるいと言っているわけではない。どうぞ自分のことをたくさん考えてください。ただし、他者をコントロールしたりマウンティングしたりするというのはご自身の劣等感やトラウマに由来するのだから、本来はそれらに着目して自分で自分を治療すべきなのである。そこに集中すべきなのである。だが彼(彼女)らは得てして気がつかない。そうして自身のフラストレーションを他人に投影し、自身のよくわからないプライドを満足させるために他人(私)を利用しようとする。はっきり言う。「余計なお世話」である(当時私はハラスメントを継続して受けていたことによりPMSが悪化していたが、セカンドオピニオンで別の婦人科を受診したことに文句をつけられたときは度肝を抜かれた。ちなみにこういったことは枚挙に暇がなく、趣味で書いた文章がBOOTHで売れていると雑談で言うと、後日業務中に呼び出されて批判されたこともある。自分で書いた文章が売れた経験とかないんだろな)。

この記事を読んでいるということは、あなたの周囲にもいるのだと思う。支配してくる毒親。過干渉な上司。いっちょかみな先輩。あなたは優しいので曖昧に笑いながらうなずいているのだと思う。私もそうだった。怒りが遅れてくるタイプなので、数日経ってから泣き寝入りしていた。

 

かつて私の周囲にいた支配依存人間に、いまだったらこう言っているだろう。

 

あっ、大丈夫です。余計なお世話っす。どうぞご自分の課題に専念してください。私は私で勝手にやらせてもらいますんで。私にも人権がありますんで。自由ですんで。法律は守ってますんで。あなた様にどうこう言われる筋合ないんで。どうぞ自分の心配だけおおいにしてればいいんじゃないすかね。どうしても言いたい? おうちでチラシの裏にでも書いてればいいんじゃないすかね。心配? しつけえな。(Adoさんではないけど)『うっせえわ』。

……トラウマの治療中であるのだが、こうして時折怒りが湧きあがる。

​トラウマは根が深い。「闇深案件」である。トラウマを与えている人間はそのことに気づかない。本のタイトルではないが、いまごろでけえパフェでも食っているのである。

フラッシュバックが出現したら、加害者のパフェシーンを思い浮かべるのもいいと思う。あの手の方々は謝罪を要望しても絶対に非を認めないので(経験者は語る。「感想に過ぎない」からなにを言ってもいいのだそうだ)、泣いて土下座することは今後絶対にない。天文学的に、ない。自責の念に悩まされることも一切ない。ふつうにのんきにお昼寝し、おワインをたしなみ、おいしいものを召し上がっているのである。それこそパフェをニコニコ食べているのである。でけえグラスに層のように織りなす極甘スイーツの数々を、なっげえ銀のスプーンで「あーん」と食べているのである。

どうですか? なんだかあなたばかりが苦しんでいるのがアホらしくなってきませんか?

フラッシュバックは自分が弱いからではない。あれは身体反応なので、むしろフラッシュバックの存在はトラウマの物理的な存在の証明である。だから圧倒的に「相手が悪い」のである。

しばしば「いじめられるほうがわるい」(パワハラされるほうがわるい)といったよくわからない言説が日本では投げかけられる。もし赤の他人からそのように言われたらさすがにこう言い返そう。

「いじめられるほうがわるい……なるほど、具体的にどういう部分が『悪い』んですか?」「それがあったらいじめていいんですか?」と。

​そしてあなた(私)が楽しめることをしましょう。

​閲覧注意

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